囲碁にまつわる言葉(ひ)
2024/6/18
「吾輩は猫である」(その2)
落語等で取り上げられるように、庶民の間にまで囲碁は浸透していた。囲碁には「手談」という別称があるくらい、一手一手には打ち手の意図が込められる。素人では、その意図が思わず口をついて出てくる。それを聞くのは、ほほえましいと思うか、五月蠅い・下品と感じるか。人それぞれであろう。漱石先生も、登場人物に語らせている。
迷亭と独仙との対局
「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ這入ってくる法はない」
「禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが、本因坊の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
「然し死ぬ許りだぜ」
「臣死をだも辞せず、況んや彘肩をやと、一つ、こう行くかな」
「そう御出になったと、よろしい。薫風南より来たって、殿閣微涼を生ず。こう、ついで置けば大丈夫なものだ」
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさかつぐ気遣はなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘をと、こうやったら、どうするかね」
「どうするも、こうするもないさ。一剣天に倚って寒しーーえゝ、面倒だ。思い切って、切って仕舞え」
「やゝ、大変々々。そこを切られちゃ死んで仕舞う。おい冗談じゃない。一寸待った」
「それだから、先っきから云わん事じゃない。こうなってる所へは這入れるものじゃないんだ。
「這入って失敬仕り候。一寸此白をとって呉れ玉え」
「それも待つのかえ」
「序でに其隣りのも引き揚げて見てくれ給え」
「ずうずうしいぜ。おい」
以下省略
二人の対局を茶化しているようである。漱石は碁が嫌いだったのだろうか。生き死に、切る、つぐ、本因坊等の囲碁用語は実際に碁を打ったものでないと使いこなせないだろう。漱石も囲碁を嗜んだと思いたい。