歩こう!!神奈川 【横浜山手散歩】(見学会ブログNO 8 )
『 横浜 山手の散歩道 連載 8 』
【山手245番はヘボンさんの住まい】・・・山手245番の位置は、港の見える丘公園前交差点入口から、左に「イギリス館や山手11番館」を見ながら、近代文学館入口を真っ直ぐに進みます。しばらく行くと左手に大韓民国総領事館(警察官常駐)を見て、右折すると間もなく《ヘボンさんの住まい跡、山手245番》に辿り着きます。今は、門扉だけが屋敷の面影を残すのみです。(写真下:門扉だけが残るヘボンの住まい)
【横浜在住33年間、内11年〈67~77歳〉245番でヘボンは何をしたか】・・・博士は67歳の頃、在住2番目の自宅~山下39番〈人形の家裏手、横浜地方合同庁舎〉から245番に転居しました。39番には19年間程居住し、日本人への施療(無償)、和英辞書編纂、新約聖書(全27巻、共同で翻訳)、教会創設(現在の横浜指路教会)など精力的に活動しました。245番に落ち着くまでの数年は、それまでの疲労で体調を壊しスイスで静養したり、山手384番の息子(写真上:家族写真※➊)宅にて過ごしたりしました。245番での仕事の中心は翻訳と明治学院(明治20年1月設立※❷)初代統理(病理授業を兼務)の務めを果たしました。75歳の時(245番時代)金婚式(写真中:ヘボン夫妻※❸)をあげ、完成直後の指路教会で送別会〈77歳、1892(明治25)年〉の後、同10月に33年間住み慣れた横浜を後にアメリカへ帰国しました。その後の隠退生活は77~96歳、1911年に亡くなりました※❹。
※➊1890(明治23)年撮影「ヘボン家族写真」前列は夫妻の姪(左)、ヘボン(中央)とヘボン夫人クララ(右)、後列は夫妻の子息サムエル(左)とその夫人(中央)、ヘボン夫人の妹(右)。夫妻の金婚式の日に撮影されたといわれる。
※❷1887(明治20)年1月22日「明治学院設立」設立当初は、生理学及び衛生学教授(72歳)として勤務。その前年には、和英語林集成(和英辞典)第3版版権を丸善に譲渡、その代金を明治学院に寄付。ヘボンは74歳から76歳まで学院統理(現在の学長)の責任を持つ。山手245番から芝・白金迄、桜木町迄が自家用馬車、品川迄が汽車、品川から学院迄馬車、おそらくは2時間はかかったとされる。右足はリューマチ、左ひじの痛み、手足の不自由さの中、白金迄、週2度は通ったといわれる。
※❸1890(明治23)年撮影「ヘボン夫妻金婚式」前年明治22年に、夫妻は指路教会会堂建設資金の募金のため、一時帰米。22年4月から12月にかけて。
※❹1905(明治38)年3月13日 政府は博士の功績をたたえ「勲三等旭日章」を贈る。(90歳の誕生日)
※参考文献:「ヘボン書簡集」岩波書店、「ヘボン物語」教文館、「宣教医ヘボン」横浜開港資料館図録など
※ご案内:山手245番へは、元町中華街駅より徒歩およそ15分程度です。
※次回、ブログは9月10日頃、更新します。