歩こう!!神奈川 【横浜歴史散歩】(見学会ブログNO10)
連載 『 港~横浜 歴史をたどる散歩道 連載 10 』
【証言者 岩倉使節団随行員 久米邦武】写真は使節団随行員 久米邦武です。久米が作成した「奉使欧米日記」とは、使節団の公的な報告書で正式名称は『特命全権大使 米欧回覧実記』と言います。政治、経済、産業、技術、軍事、教育、文化、社会、風俗など、幅広いジャンルを網羅する明治初期における西洋文明見聞録の資料です。『米欧回覧実記』は久米の編纂により1878年(明治11年)に刊行。本格的な黒背皮の黒褐色クロース洋装本で、中途で回覧を中止したスペイン、ポルトガル両国の略記も含んだ全100巻(5編5冊)で構成されています。
「西洋では、政府は国民の公的機関であり、使節は国民の代理者であるとされている。各国の官民が、わが使節を親切丁寧に迎えたのは、つまりは我が国の国民と親しくなりたいためであり、その産業の状況をそのまま見せてくれたのは、つまりその産物をわが国民に愛用して欲しいからである。」と、あります。使節団の目的は三つとされ、一つ目は新しく誕生した天皇国家の挨拶回り。訪問国は12ケ国で、幕末に条約を結んだ国、米国・英国・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストリア・スイス(条約締結したスペイン・ポルトガルを除く)でした。二つ目は条約改正に関する交渉で、出発時点で改正困難との認識から、相手国の要望を聞く意図があったとされます。しかし、米国で思いも寄らない熱烈な歓迎を受けたことと、米国側にも改正への思惑があり、本交渉を始めることになりました。しかし、そのためには天皇の委任状が必要とされ、大久保と伊藤が委任状を取りに急遽一時帰国することになりました。いざ交渉を始めてみるとうまくいかず、このため旅程は大幅に延び、米国に200日余も滞在する羽目となりました。結果、当初の旅の予定であった10か月半が1年9か月余にも及びました。これは大失態であり、留守政府に主導権を握られる原因にもなりました。三つ目は先進国たる西洋の実情をつぶさに探索し、新しい国造りの方針を立てること、その青写真を描くことでした。これこそが使節首脳の最大の目的で、維新政府のトップリーダーが揃って出かける真の意味でした。「サンフランシスコに到着し、ボストンを出発するまで、米国を旅してその実際の姿を目撃したことを簡略にいえば、この全地は欧州の文化にしたがって、その自主の精神と興産の資本と溢れてこの国に流入しているなり、米国の地は欧州全土に比するといえど欧州は頗(すこぶ)る荒寒の野にて、その開化繁庶(開かれて富み栄えている)の域はその三分の一にすぎず、王侯、貴族、富商、大会社ありて、その土地、財産、利権を専有し、各習慣により国をなす、晩起(スタートが遅い)の人はその自主力を逞しくするに由なし、因ってこの自由の境域を開きて、その事業の力を伸ばし、故にその国は新創にかかり、その土地は新開にかかり、その民は移住民にかかるといえども、実は欧州にて最も自主自治の精神に逞しき人、集まり来りてこれを率いる所にして、加うるに地広く土沃(ゆた)かに、物産豊足なれば、一の寛容なる立産場を開き(産業を興すには寛容であり)、事事みな麁大(そだい:こだわらず自由)をもって、世に全勝たしむ、これ米国の米国たる所以なりというべし」。
以上は、ノンフィクション作家 泉三郎氏の使節団に関する対談をもとにしました。尚「 」内は、随行員 久米氏の記録を一部読みやすいよう直して表記しました。
次号 ブログNO.11 は 2月10日頃を予定しています。