歩こう!!神奈川 【横浜歴史散歩】(見学会ブログNO11)
連載 『 港~横浜 歴史をたどる散歩道 連載 11 』
【「密航者」として出国、米国では「使節団通訳」に】さて、写真(上)はご存知の方も多いと思いますが 《 新島襄 》 です。何年前でしょうか。NHK大河ドラマ~八重の桜 〈新島八重〉 ~が放送されましたが、主人公の夫が新島襄です。襄は、幕末の1864(元治元)年、函館より密出国してアメリカに渡った人物です。しかし、その後、初代駐米公使、森有礼によって正式な留学生として認可されました。1872(明治5)年、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会い、その語学力に目をつけた木戸孝允によって通訳に任じられました。襄は、使節団に同行しニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、ドイツ、ロシアを訪ね、ベルリンに戻ってその地に滞在、使節団の報告書『理事功程』を編纂しました。
【日本へは「宣教師」として、その後、同志社を創設】 1874(明治7)年、アンドヴァー神学校を卒業すると、アメリカン・ボードから日本へのキリスト教宣教を命じられました。翌75年、宣教師試験に合格し、ボストンで教師として任職されました。同年10月には、バーモント州の教会で、日本でのキリスト教主義大学の創設を訴えて5000ドル(日本円で約200万円)の寄付を得ました。太平洋を横断し11月横浜港に到着、故郷上州(群馬県)安中に向い、3週間滞在しました。その短い間、キリスト教講義を開催し約30名の人々がキリスト教信仰に入りました。この人たちによって現在、日本基督教団安中教会(会堂は、新島記念会堂と称する~写真下)が設立されました。1875年末、京都府知事や京都府顧問の山本覚馬(八重の兄)の賛同を得て、旧薩摩屋敷を譲り受け、官許同志社英学校を開校し初代校長に就任しました。晩年は健康を害し、1890(明治23)年、神奈川県大磯の旅館「百足屋」で静養、回復せず徳富蘇峰や小崎弘道らに10か条の遺言を残して死去しました。(享年48歳)最期の言葉は「狼狽する勿れ、グッドバイ、また会わん」でした。
尚、本稿とはあまり関係ありませんが、小崎弘道は東京、霊南坂教会~山口〇〇さん、三浦〇〇さんが結婚式を挙げられた教会~創設者初代牧師、同志社総長など歴任しています。
次号 ブログNO.12 は 2月25日頃を予定しています。