歩こう!!神奈川 【横浜歴史散歩】(見学会ブログNO12) - 横浜市退職小学校長会

歩こう!!神奈川 【横浜歴史散歩】(見学会ブログNO12)

2024/2/25

連載 『 港~横浜 歴史をたどる散歩道 連載 12 』

【150年あまりの歴史を刻む教会】前号(11)でご紹介した新島襄がアメリカ訪問中の岩倉使節団通訳として随行し始めた明治5年(1872)と言えば、日本におけるプロテスタント第一号教会誕生の年です。横浜大桟橋入口にある開港広場〈噴水〉後方にある教会が【横浜海岸教会】です。約150年あまり前、明治5年(当時の名称)【日本基督公会】として創設されました。明治5年といえば、江戸時代初期から続く「キリシタン禁制の高札」は、維新の世になっても未だ撤去されず、街々に掲げられていました。(実際、高札の撤去は、明治6年、政府の太政官布告第68号によって、禁教政策に終止符がうたれたのです。)教会の庭には、今でも日本基督公会発祥の記念碑が残っています。また、創設当初の「聖なる犬小屋と称された石の小会堂」(写真下:若き日のバラ夫妻と石の小会堂)は間口2間、奥行4間の広さで、その石は今も花壇の縁石として使われています。

【海岸教会ゆかりの人物伝】 海岸教会創設の頃、アメリカ人宣教師を紹介します。第一に、安政6年(1859)日米修好通商条約が締結されるやいなや、横浜に上陸したのが『後に、明治学院を創設した  J.C.ヘボン師夫妻(写真:金婚式の夫妻)(妻はフェリス女学院の元を築く)』でした。滞在期間は33年間(神奈川成仏寺~仮住まい、現横浜地方合同庁舎前に自宅兼施療所・ヘボン塾・教会、晩年は山手居留地244番付近に居住、1992年帰国)に、宣教医として医療活動、和英辞典編纂(いわゆるヘボン式ローマ字を考案)、聖書翻訳共同事業の責任、ヘボン塾(男女共学の英学私塾、後の明治学院~ヘボンはその初代統理)、現横浜指路教会創設など多方面にわたって貢献しました。第二に、ヘボンと同じ年、横浜に上陸したのが『教育者、S.R.ブラウン師(写真)』でした。滞在期間は29年間(ヘボンと共に成仏寺に居住、1879年帰国)に、官立及び私塾(現在の神学校)での教育活動、ヘボンと共に聖書翻訳事業などに貢献しました。ブラウンの自宅は、山手211番でこの地に現在の横浜共立学園が創設されました。211番の「ブラウン塾」から、日本プロテスタント教会や教育界の貢献者、井深梶之助(明治学院第2代統理)、植村正久(富士見町教会を創設)、本多庸一(青山学院院長)など多くを輩出しました。第三に、『海岸教会を創設したJ.H.バラ師夫妻(アメリカで結婚後すぐ来日、バラ29歳、妻20歳~妻は横浜永住で山手外人墓地の一角に眠っています)』でした。滞在期間は58年間、ヘボンやブラウンと共に成仏寺に居住、その間毎日、早朝およそ1キロ離れた所〈岩﨑山平尾内膳物見の松~現 栗田谷中学校付近〉で熱心に日本の未来について祈禱したと言われています。英学を学ぼうとバラ塾に集った上記の井深梶之助、植村正久や本多庸一ら〈いずれも、旧幕臣の子弟〉が中心となり、日本基督公会が創設されました。後に井深梶之助曰く「バラ師は十数名の青年に英語を教授する傍ら、言語は未熟ながらも、燃えるばかりの熱心をもって聖書を説明し、かつ声涙共に下るというべき熱誠をもって彼らのために祈りつつ伝道することがなかったならば、基督公会は建設されることは、恐らくなかっただろう」と、回想しています。       参考:横浜プロテスタント史研究会編『横浜開港と宣教師たち』より

次号 ブログNO.13 は 3月10日頃を予定しています。

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