歩こう!!神奈川 【歴史散歩】 (見学会ブログNO4)

◆◆◆ 満福寺、腰越状の背景とは ・・・・・源 義経は、兄の頼朝(鎌倉幕府を開き、初代将軍となった)の挙兵に参じ鎌倉に入りました。その後、頼朝の命で京に上り木曾義仲を討ち、さらに平家と戦い追討し勝利しました。その功を後白河法皇に認められ、信任を得て検非違使左衛門少尉となりました。しかし、それは兄頼朝の許可を得ておらず、それにより頼朝の怒りをかいました。戦いに勝利した義経は、鎌倉に戻ろうと腰越まで来ました。しかし、頼朝は義経に怒りをあらわにし、鎌倉入りを許しませんでした。そこで,義経はこの地に留まり、頼朝に気持ちを伝えようと書状を書きました。それが腰越状でした。義経は鎌倉の町に近づくことも許されなかったのです。義経は書状を大江広元(頼朝の家臣)に託しました。しかし書状は頼朝に届かなかったといいます。そして義経はしかたなく京へ戻っていきました。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
では『腰越状』(吾妻鏡の一節から)とはどんな訴えだったのでしょうか。書状は義経の【情感に訴える】書き出しで始まります。「朝敵平家を滅ぼし、先祖代々から弓矢術を奮い、父の敵を討ちました。思わぬ告げ口で大きな手柄も無視されました。罪もないのに罰を受け、手柄はあっても間違いはしていないのに(頼朝の)お怒りを受け、残念で血の涙にふけっております。…中略… 告げ口をした者を正さずに私を鎌倉へ入れないのは、心のうちも話すことができず、むなしい日々を送っております。長く、情け深い(頼朝の)お顔にもお会いできず、兄弟の情はないのと同じようです。私の運もこれまでなのでしょうか。それとも、前世で悪い行いがあったためでしょうか。悲しいことです。亡き父(義朝)が再びこの世に現れて下さらない限り、誰にも私(義経自身)の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、また哀れんでもらうこともないのでしょうか。」《文中( )は投稿者が挿入》この後の続きは、義経が幼き頃より父を亡くし孤児として育ち苦労を重ねたこと、そして、時が熟し朝敵である平家掃滅に奮戦して源氏の面目を果たしたこと、故に法皇より任官されたこと等々が、長々と述べられています。
●●●●●● 義経と兄の頼朝 皆様はどうお感じになりましたか? 義経は上記の起請文を送りましたが、頼朝は命令に反した者は弟たりとも決して許しはしませんでした。情感に訴えた義経と新たな武家の世を創り出そうとした頼朝との「深い溝」は、どうにも埋めようがなかったのかもしれません。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
〇ご案内 ➜➜➜「満福寺」をたずねたい方は こちらへ 鎌倉市腰越2-4-8 江ノ電【腰越駅より徒歩五分】
頼朝が弟 義経にひとこと 「行く道は 後戻りせぬ 武家の世へ」是非、次号3月のブログもご覧ください。