歩こう!!神奈川 【歴史散歩】 (見学会ブログNO7)
◆◆◆ 横浜にあった「旧東海道の三宿場」 とは ◆◆◆◆◆ 江戸時代の陸上交通路と言えば、旧東海道が思い浮かびます。日本橋を起点に西に伸び、京都に至る当時の大動脈は総距離にして約500㎞ (約125里) でした。その間、おおむね8㎞ (2里) 程度を目安に、品川~大津に至る五十三の宿場 (東海道五十三次) が置かれました。五十三次の内、横浜市域には神奈川宿 (神奈川区) 保土ヶ谷宿 (保土ヶ谷区) 戸塚宿 (戸塚区) と三宿場がありました。 ➜➜➜ 今回は 【保土ヶ谷宿その ⑴ 】 をお届けします。
➀ 【 保土ヶ谷宿 】 と言えば、有名な 【 帷子橋 】 (絵図:東海道五拾三次之内 保土ヶ谷「新町橋」 初代広重 保永堂版) 今回はまず、「帷子橋」について書いてみます。 『新編武蔵風土記稿』によれば、別名「新町橋」とも呼ばれ、橋の大きさは、長さは15間(約27メートル)、幅は3間(約5・4メートル)という大きなものだったとされています。 この浮世絵は何よりも~構図の美しさ~にあると言われます。 保永堂版(版元が保永堂なので一般にこう呼ばれています)では、橋の江戸側より(現在の帷子川方面)帷子橋と対岸を望む構図となっていて、橋を渡る旅人や駕籠、さらに対岸の町並みが描かれています。 特に、この構図の美しさ(面白さとも言えますが)とは、橋を渡り切って、東海道の道筋が右手に屈曲して描かれていることです。ですから、全体として、この構図には~奥行きの効果~が見られるわけです。
➁ 【 帷子橋 】 は、なぜ有名になったか? 旧東海道の中でも「帷子橋」が有名になった理由の一つは、江戸幕府の政策の為か、東海道には大きな橋が少なかったことが考えられます。 江戸から西へ向かうと、最初の大河である「多摩川」には、近世中期以降、橋が架けられることはなく、船渡し(六郷の渡し)であったように、東海道に架かる橋はある程度の規模であれば、人目を引いたことが想像されます。 また、「帷子橋」が保土ヶ谷宿の東の入り口ともいうべき位置にあって、保土ヶ谷宿を代表する風景であったことも有名になった理由の一つと言えます。
➂ 【 保土ヶ谷宿 】 の範囲は? 「保土ヶ谷宿」は、現在の、天王町、岩間町、神戸町、帷子町、保土ヶ谷町などの範囲となっていました。 神奈川宿から南西に進んだ旧東海道は、芝生村から江戸見附(現在の松原商店街入口近く)を越えて宿場に入り、帷子橋(現在の相鉄線・天王町駅前付近)を渡って、岩間町、神戸町、帷子町、保土ヶ谷町と町並みが続いていました。帷子町には、問屋場、助郷などがあって宿場の中心となっていました。 現在のJR東海道線踏切を越えたところ、突き当りに「本陣」(現在も門扉が残されています)があり、大きく西に(右手に)曲がり、茶屋町の先にあった上方見附を経て、宿場を外れ「権太坂」に至っていました。
➜➜➜ 次号「ブログNO.8 に続く」 次号は4月25日 保土ヶ谷宿 その⑵ を紹介します。