歩こう!!神奈川 【歴史散歩】 (見学会ブログNO8)
◆◆ 連載 横浜の「旧東海道の三宿場」今回は 【保土ヶ谷宿その⑵】◆◆ 江戸時代の陸上交通路と言えば、旧東海道。日本橋を起点に西に伸び、京都に至る当時の大動脈は総距離にして約500㎞ (約125里) でした。その間、おおむね8㎞ (2里) 程度を目安に、品川~大津に至る五十三の宿場 (東海道五十三次) が置かれました。五十三次の内、横浜市域には神奈川宿 (神奈川区) 保土ヶ谷宿 (保土ヶ谷区) 戸塚宿 (戸塚区) と三宿場がありました。➜➜➜ さて、今回は 【保土ヶ谷宿 宿について 】 お届けします。
➀【 保土ヶ谷宿 】 の宿泊施設「JR保土ヶ谷駅」から約3分、東戸塚方面に「旧東海道」を歩くと『上岩間踏切』があります。踏切を渡り直進した先には、現在の東海道、そして真正面には【保土ヶ谷宿 苅部本陣】の門《写真(上)参照》が見えてきます。ここ保土ヶ谷宿には、本陣一軒、脇本陣三軒、茶屋本陣一軒があり、大名、旗本、幕府役人などがこれらの宿泊施設を使用しました。脇本陣は本陣だけで収容できない場合に使用されましたが、後に諸侯の内でも「一万石以下、旗本など」は脇本陣を利用しました。参勤交代の際、大名は箱根を越え、小田原宿、戸塚宿、江戸へと一日に約十里の行程がほとんどで、保土ヶ谷宿は通過地点であり、本陣や脇本陣は休息所として利用されたようです。ちなみに、本陣(清兵衛)は「建坪270、畳数140、室数18」、脇本陣(藤屋四郎兵衛)「建坪118.8、畳数110、室数14」、脇本陣(水屋与右衛門)「建坪128、畳数97、室数14」、脇本陣(大金子屋八郎右衛門)「建坪119、畳数101、室数14」、茶屋本陣(九左衛門)「建坪50、畳数8」という構えでした。これ以外に、一般の旅人は「旅籠屋」が60数軒あり賑わっていたようです。写真(下)は、現在も当時の面影を残す『旅籠屋、本金子屋』のたたずまいです。当時、江戸から西に向かう旅人で、足腰に不安のある者、女人・子ども連れは、街道の難所「権太坂」を前にして、ここ保土ヶ谷宿で旅の疲れを癒し、翌朝「権太坂」を目指したようです。
➁【 苅部本陣 】とは? 現在は門だけが残っていますが、往時は東海道の本陣の中でも立派な構えをしていました。門前の〈解説版〉によると「保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣 苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめ、同家は問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、1859(安政6)年、横浜が開港する際、当時の当主 清兵衛悦甫が総年寄に任じられ、初期の横浜町政に尽くしました。1870(明治3)年に、軽部姓に改称し、今に至っています。」
➂【 本陣にまつわる話 】 参勤交代の折、大名は旅に必要な道具は総て携行したと云われます。屏風、風呂、便器まで携行し自炊で、本陣や脇本陣は座敷を提供するだけでした。戦の遠征時と同様で、ただ野営しなかっただけで、宿泊料も「心付け」でした。参考までに金額は「五千石より萬石内外の往来は、休みにして金百疋(ひき)~二百疋あるいは銀壱枚、宿泊にして二百疋~五百疋位まで」と、一定の目安があったようです。
➜➜➜ 次号「ブログNO.10 に続く」 次号は5月10日 権太坂・境木 を紹介します。