歩こう!!神奈川 【歴史散歩】 (見学会ブログNO10)
◆◆連載 横浜の「旧東海道の三宿場」【保土ヶ谷そして戸塚宿その中間点境木】を訪ねます。◆◆ 江戸時代の陸上交通路と言えば、旧東海道。日本橋を起点に西に伸び、京都に至る当時の大動脈は総距離にして約500㎞((約125里)。その間、おおむね8㎞(2里)を目安に、品川~大津に至る五十三の宿場(東海道五十三次)がありました。五十三次の内、横浜市域には神奈川宿(神奈川区) 保土ヶ谷宿(保土ヶ谷区) 戸塚宿(戸塚区)と三宿場がありました。さて、今回は「権太坂上の投げ込み塚と境木の焼餅坂について」紹介します。
【 権太坂上の投げ込み塚 】とは? 前号NO9でも紹介しましたが「権太坂は旧東海道の難所」でした。約1.5㎞も続くこの坂にまつわる悲しい話が伝わっています。それは権太坂上、境木にある『投げ込み塚(写真)』です。この塚は、東戸塚駅方向から環状2号線を突き切り、境木中学校・小学校前を直進、道がやや左にカーブする辺り、道沿い左手にあります。小さな石仏が並ぶ一角にあるこの塚は、かつて旧東海道が難所であったことを物語るように、行き倒れた旅人たちを埋葬した場所です。昭和に入るまで、権太坂は訪れる人もまばらで昼なおうっそうとした木々が生い茂る淋しい場所だったそうです。戦後昭和30年代、この辺りを宅地開発するうちに、おびただしい数の人骨が掘り出されました。最初は、連続殺人事件かと騒がれましたが、後の調査により人骨はかつて権太坂を上りきれずに行き倒れた人や動物の遺骨であり、ここに遺体を投げ込んだ古井戸があったことが分かったのです。そもそも権太坂を上るには大変苦労したそうで、馬車に積んだ荷物を全て降ろさなければとても上りきれないほどだったと言います。今となってはかつての急坂はすっかり整備され緩やかになり、車社会となってからは国道1号線の抜け道として猛スピードで車が駆け抜けていく坂ですが、かつてはひとたび雨が降ると足元はぬかるみ滑りやすくなり、滑落して命まで落とす者までいたというから驚きです。尚、ここから発掘された人骨は、国道1号線沿い平戸交差点近くの「東福寺」に葬られています。
【 境木の焼餅坂 】とは? 境木立場(境木地蔵堂付近)から戸塚宿方面、旧東海道を進むと「焼餅坂(写真)」があります。当時の品濃村と平戸村の境にあったこの坂は、一町半(約160m)の坂でした。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたことから「焼餅坂」と名付けられたと言われています。別名牡丹餅(ぼたもち)とも呼ばれています。戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。
➜➜➜ 次号「ブログNO.11に続く」6月10日予定 もうしばし「境木付近」にとどまります。