歩こう!!神奈川 【歴史散歩】 (見学会ブログNO11)
◆◆連載 横浜の「旧東海道の三宿場」今回は【萩原代官屋敷と品濃の一里塚】を訪ねて◆◆◆
江戸時代の陸上交通路と言えば、旧東海道。日本橋を起点に西に伸び、京都に至る当時の大動脈は総距離にして約500㎞((約125里)。その間、おおむね8㎞(2里)を目安に、品川~大津に至る五十三の宿場(東海道五十三次)がありました。五十三次の内、横浜市域には神奈川宿(神奈川区) 保土ヶ谷宿(保土ヶ谷区) 戸塚宿(戸塚区)と三宿場がありました。
【 萩原代官屋敷 】とは? 権太坂上、武蔵と相模の国境(くにざかい)境木地蔵尊から境木小学校脇の道を下ったところに『萩原代官屋敷』があります。屋敷入口の解説によると『萩原家は代々旗本杉浦氏の代官職として、この地に屋敷を構えました。旗本杉浦氏は、県下では茅ヶ崎市小和田・菱沼・平塚市四之宮・寒川町宮山・市内では平戸を所領としていました。幕末から明治初年の当主太郎行篤は嘉永4年直心影流の免許皆伝を得、ここに道場を開きました。道場には数多くの剣客が訪れ、萩原家所蔵の「剣客名」には「安政5年8月、天然理心流 近藤勇」の名が記され、慶応2年9月までの入門者の総計が225名に達したといいます。現在の保土ヶ谷区・戸塚区・鎌倉市三浦市にかけて、また、平塚市・茅ヶ崎市・寒川町等の広範囲にわたる門弟のため、出稽古を行っていました。』確かに、萩原家所蔵の「剣客名」「安政5年の記名(写し)」には、新選組長の近藤勇の名が記されていました。今では、往時を偲ぶ史跡といえば、瓦葺きの武家門(写真)だけとなっています。
【 品濃の一里塚 】とは? 代官屋敷から、旧東海道の道筋に戻り、戸塚宿方面に向かうと、左右に明らかに「土盛り」をしたと思われる場所があります。ここが、『品濃の一里塚(写真)』です。一里塚の解説には『街道の両側には、一里ごとに五間四方の塚が造られ、塚の上には榎や松が植えられました。一里塚は、旅人にとって旅の進み具合が分かる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏は木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩場所となりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。』この品濃の一里塚は、日本橋から九番目となります。
【 昔、昔の、話ですが・・・】本ブログ作成者が、若き頃(初任校)、1981(昭和56)年、保土ヶ谷宿からここ品濃一里塚付近まで、6年の子どもたちを連れて旧東海道を歩いたことがありました。その年の秋に、県教育研究大会があり、その時の発表資料が最近見つかりました。41年ぶりに再会した資料のタイトルは「子どもの歴史的な見方・考え方をどのように育てたらよいか~身近な素材の教材化、旧東海道保土ヶ谷宿の学習を通して~」でした。今は薄汚れてしまった資料に残されていた、当時の子どもたちの感想文をしみじみと読みかえしています。
【 道案内 】◆「品濃の一里塚」JR東戸塚駅下車、徒歩およそ15分、東戸塚駅➜西武の方向➜最上階イオンモール通過➜環2号歩道橋を渡り➜突き当りを左折➜直進すると前方左右に一里塚が見えます。◆「代官屋敷」一里塚を境木方面に直進➜谷戸にある小さな橋を渡り右折➜最初の十字路を左折すると突き当り(一里塚からはおよそ7・8分)
➜➜➜ 次号「ブログNO.12に続く」6月25日予定 まだ「境木付近」にとどまります。