歩こう!!神奈川 【歴史散歩】 (見学会ブログNO12)

特集「鎌倉武士の誉れ高い畠山重忠とは?」
今、NHK大河ドラマ《鎌倉殿の13人》が放送されています。その中で、畠山重忠という鎌倉武士が登場しています。重忠とはどのような武士だったのでしょうか? 過日、二俣川にある「神奈川県公文書館」をたずね、資料を見てきました。という訳で、今回は特集です。
NHK大河ドラマ《鎌倉殿の13人》に登場する【畠山重忠(配役:中川大志さん)】は、主人公【北条義時(配役:小栗旬さん)】とも互いの力量を認め合うような良い関係が伺えます。重忠は鎌倉武士として人格・体力・容姿・音楽的才能などに優れ、知・仁・勇を兼ね備えた武将と伝えられています。鎌倉武士の典型ともされる重忠は、平安時代末期、1164年武蔵国畠山(現;埼玉県深谷市)を本拠とする畠山重能の子として生まれました。1180年、源頼朝が平家討伐の兵を挙げると、当初は頼朝方の三浦氏と戦ったのですが、後に頼朝に従い有力御家人として活躍しました。しかし、頼朝の死後、鎌倉幕府内の権力争いに巻き込まれ、1205年6月、義時の父・北条時政の陰謀により、菅谷の館(現:埼玉県武蔵嵐山)より手勢134騎にて駆けつけた重忠は、旭区二俣川付近で待ち受ける北条勢(一万騎余り)の大軍と戦い、非業の死を遂げました(享年42)。頼朝の死去からわずか5年後のことでした。重忠と戦ったのは、時政の命を受けた義時本人であったと言われていますが、父・時政には逆らえず「重忠には謀反の意図なきも・・・」やむなく重忠との壮絶な戦いを繰り広げたのでした。その義時、承久の乱で鎌倉より軍を出達させる時、次のようなことばを残しています。「亡き頼朝様の頃は、軍の先陣は畠山重忠がつとめていた。しかしかの人は、もういない。先陣は誰に任せたら良いのだろうか。」と。
また、御家人として忠実で優秀な武将であった重忠を高く評価していた頼朝は、亡くなる時、重忠を枕元に呼び寄せ『子どもたちのことは頼んだぞ』と伝えたそうです。以下は、言い伝えられていることですが、1184年、一の谷に軍を構える平氏軍との戦いで、険しい山を馬もろとも駆け下りる義経軍の中、重忠は愛馬を労り、担いで降りたと伝えられています。これが有名な『ひよどり越えの逆落とし』です。義経に愛された静御前は、舞の名手として評判の高い人物でしたが、鶴岡八幡宮で義経をしのびながら、舞を舞った際、重忠は銅拍子を打ち伴奏を務めました。(絵図を参照:説明によると、一段高いところに「頼朝」、その手前に「時政」、「静御前」の右後ろが「重忠」絵図は江戸時代、三代目歌川豊国の作)(ついでながら、埼玉県にある重忠公史跡公園内には、「愛馬三日月を背負う重忠像」があります)
ご案内;【ミニ展示、畠山重忠と二俣川】神奈川県公文書館、期間は8月31日まで、相鉄線二俣川駅より徒歩17分、または二俣川駅北口より「旭23運転免許センター循環二俣川北口」行き「運転免許センター」停留所下車、徒歩3分、住所;旭区中尾1-6-1
史跡巡り;「畠山重忠公碑(鶴ヶ峰駅下車、徒歩8分)」「六ツ塚(バス停、薬王寺入口下車徒歩2分)」「首塚(鶴ヶ峰駅下車徒歩7分)」「駕籠塚、重忠の妻〈菊の前〉が駕籠で駆けつけ、夫の死を悲しみ自害。そのまま埋葬されたと言われる(鶴ヶ峰駅下車徒歩15分)」
➜➜➜ 次号「ブログNO.13に続く」7月10日予定 連載「横浜三宿」です。