歩こう!!神奈川 【歴史散歩】 (見学会ブログNO22)
連載『神奈川宿を歩く➆ ~なぜ宗興寺は今の横浜市大病院に繋がるか?』
旧東海道をさらに東に進みましょう。宮前商店街を抜け国道に出て「左折」すると、横浜市立幸ヶ谷小学校があります。小学校を左手に見ながら体育館横を「右折」します。見えてくるのが、【曹洞宗宗興寺】です。今はコンクリートの立派なお寺《写真➁》ですが、門前の解説文には、次のことが書きとめられていました。『神奈川駅中図会(江戸時代の東海道を描いた図絵)では、権現山の麓に描かれている。開港当時、アメリカ人宣教師で医師であったヘボン博士(写真➀、正式にはJames Curtis Hepburn)がここに施療所を開いた。これを記念する石碑(写真➂)が境内にある。このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典(正式名称は「和英語林集成」と言って、日本では印刷技術が無く、上海で印刷した)を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、我が国の教育にも尽力した人である。』(明治学院の初代総理をつとめました)1861(文久元)年、春から開設したヘボン施療所の外来は、一日に100~150人にも及んだと言います。ひと月に1000人以上の処方箋を出して、手術も施したと言います。(ヘボン書簡より抜粋)攘夷運動の危険から間もなく施療所を閉鎖して、横浜居留地39番(横浜中税務署前)にヘボン邸を移転させて施療を本格的に開始してから、治療に訪れる人々はさらに増えたと言います。その理由は、ヘボンの治療は〈無料診療〉だったからでした。幕末明治の頃、ヘボンの手術をめぐって有名な話が伝わっています。三代目沢村田之助は人気の美貌女形歌舞伎役者でしたが、脱疽のためヘボンによる右足切断手術を受けて一命を取りとめました。横浜下田座でお礼興業をしましたが、その後再び病状悪化、再手術をして回復しました。(写真➃は再手術の様子)実は、ヘボン施療所から紆余曲折はありますが、今の横浜市立大学医学部、病院へと繋がっています。金沢区の市大病院には、ヘボンの功績をたたえて「ヘボン・ホール」があります。最後に、ヘボンをもの語る俗謡から「ヘボンさんでも草津の湯でも、恋の病は治りゃせぬ」。
ヘボン:アメリカペンシルベニア州ミルトン生まれ、1815年~1911年、日本滞在33年間
次号「ブログNO.24に続く」11月10日頃予定 連載「神奈川宿」です。
11月3日(木)見学会の様子を掲載するかもしれません。