歩こう!!神奈川 歴史散歩 (見学会ブログNO9) - 横浜市退職小学校長会

歩こう!!神奈川 歴史散歩 (見学会ブログNO9) 

2022/5/11

◆◆◆ 連載 横浜「旧東海道の三宿場」今回は 【保土ヶ谷そして戸塚宿 その中間地点】を訪ねます。 ◆◆◆   江戸時代の陸上交通路と言えば、旧東海道。日本橋を起点に西に伸び、京都に至る当時の大動脈は総距離にして約500㎞((約125里)。その間、おおむね8㎞(2里)を目安に、品川~大津に至る五十三の宿場(東海道五十三次)がありました。五十三次の内、横浜市域には神奈川宿(神奈川区) 保土ヶ谷宿(保土ヶ谷区) 戸塚宿(戸塚区)と三宿場がありました。さて、今回は「険しい登り坂だった権太坂と街道の休み場の境木立場について」紹介します。

➀ 【 旧東海道の難所 権太坂 】 とは? 「保土ヶ谷の本陣跡」から交通量の激しい東海道に沿って進むと、宿場の京都方面への出口である「上方見附と一里塚の跡」があります。現在は昔と比べ見劣りする小さな木が植えられている塚ですが、当時は一里ごとに設置され街道の両側に土盛りをした小山を作り、その上に遠くからも見えるように榎など木々が植えられ堂々としたものでした。(江戸から八番目の塚がここです) JR東海道線の岩崎ガードの先、保土ヶ谷二丁目から旧道を進み、元町ガードを右に見て左折すると、いよいよ『権太坂』に入ります。権太坂の史跡案内板によると「この辺りは、権太坂と呼ばれ、東海道を江戸から西に向かう旅人がはじめて経験する険しい登り坂でした。日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ平坦ですが、宿の西にある元町橋を渡った辺りから長く続くきつい坂となります。新編武蔵風土記稿に、名前の由来は道端の老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの人は自分の名を聞かれたと思い「権太」と答えたため、とあります。また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵(参照:冨嶽三十六景保土ヶ谷 北斎)にも描かれる宿場の名所となりました。」県立光陵高校や権太坂小学校を通り過ぎる頃には、健脚の方も思わず「ハーハー」と息を弾ませてしまうほどの登りです。しかし、今でこそ舗装されていますが昭和初期頃でも未舗装の坂道であったことが、珍しい写真(権太坂 砂利道を林間学校へ行く小学生たち・・権太坂小学校前の資料)から分かりました。

 【 街道の休み場所 境木立場 】とは? 権太坂を登り終えると、街道の突き当りに境木小学校、中学校が見えてきます。右手に曲がるとまもなく、武蔵国と相模国の境、境木地蔵前にさしかかります。ここが、「境木立場」となります。立場とは、宿場と宿場の間に置かれ、旅人や人足、駕籠かきなどが休息した場所でした。もともとは、杖を立ててひと休みしたところから「立場」と名が生じたと言われています。立場は風光明媚な場所に置かれ、「立場茶屋」と言って、土地の名物を用意した茶屋などがありました。ここ保土ヶ谷の境木立場は権太坂を登り切った富士山も見えるきわめて眺望のきく場所でした。

➜➜➜ 次号「ブログNO.10に続く」 5月25日予定 保土ヶ谷宿から神奈川宿に向います。

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