歩こう!!神奈川 歴史散歩 2023年見学会ブログNO7
連載 『鎌倉名越街道を歩く~今年のブログは鎌倉(南東)方面です~』
今年の見学会(1回目)は、9月19日(火)に鎌倉を予定しています。毎月2回(10日と25日更新)のブログ内容は『鎌倉名越街道を歩く』としました。今回は、予定コースのお寺【安養院の政子の人物像】に迫ります。
【北条政子の人物像とは?(写真は安養院本堂にある政子像)】昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、政子役を小池栄子さんが演じました。安養院にゆかりのある北条政子とは、どんな人物だったのでしょうか。政子は源頼朝に嫁ぎ、二男二女をもうけ、頼朝の死後は将軍となった息子の後見人として鎌倉幕府の実権を握りました。特に、『吾妻鏡』に残っている【鎌倉武士を鼓舞する名演説】は有名です。今回は、それを紹介して、政子の人物像に迫ってみたいと思います。
1203(建仁3)年のこと、二代将軍頼家が廃されたことで、実朝が征夷大将軍になります。実朝は、政子の尽力もあり三代将軍となりましたが、1219(建保7)年、鶴岡八幡宮に参詣していたところを、頼家の遺子・公暁によって暗殺されてしまいます。その結果、頼朝の遠縁にあたる九条家の頼経を後継者として迎え入れることになりますが、頼経は幼かったため、実質的に政子が将軍としての政務を後見することになります。ここから、政子は「尼将軍」と呼ばれることになります。さて、京の朝廷では、勢力が拡大する鎌倉幕府に憂慮していました。実朝が暗殺され、後継者問題による朝廷と幕府の関係が不安定になったことをきっかけに、朝廷側はかつての勢力を挽回する動きに出ました(承久の乱)。この時、政子は頼朝の正妻として、御家人たちを前に頼朝の恩義を説いてみせたのでした。この演説によって御家人たちは動揺を収め、結束し、朝廷との戦いに圧倒的勝利を収めることになったのでした。
『吾妻鏡』によると当時の演説は、以下のようだったと言われます。(以下は、現代語訳)
「皆、心を一つにして聞きなさい。これが私の最期の言葉です。亡き将軍頼朝様が朝敵であった平家を征伐し、関東を草創して以降、みなの地位も上がり、土地も増えた。その恩は山よりも高く、海よりも深い。その恩に報いる志が浅くありませんか。そこに今、不忠の悪臣らの讒言によって、道理に反した綸旨(後鳥羽上皇による追討の命令)が出されました。名声が失われるのを恐れる者は、早く藤原秀康・三浦胤義を討ち取り、3代にわたる将軍の遺跡(ゆいせき=先人の残した領地)を守るべきです。ただし、後鳥羽院に参りたい者は、今すぐ申し出なさい。」
これを聞いた武士たちは、涙に咽び、つぶさに返事を返すことができなかった、といわれます。これ程御家人の胸を打ったのは、草創期から幕府を支えてきた頼朝の後家である政子の演説であったからでしょう。
承久の乱後は、当時執権を継いでいた義時を補佐し、義時が亡くなるとその子、泰時に執権職を継がせ、同時に義時の弟である時房を連署として泰時の補佐役のポストに置き、執権政治の体制を盤石なものにしました。そして、1225(嘉禄元)年7月、当時としては長寿の69歳で病気により亡くなりました。
現在の研究では、政子の役割を武家政権成立の過程において、貴族社会から武士社会への移行を勧めた立役者として歴史的評価をしているようです。政子と実朝のお墓は、政子が創建した寿福寺にあります。
◎連載『鎌倉名越街道を歩く』 次号NO8は、5月25日頃を予定しています。