歩こう!! 神奈川 【横浜山手の坂 シリーズ⑥ ブログ】 - 横浜市退職小学校長会

歩こう!! 神奈川 【横浜山手の坂 シリーズ⑥ ブログ】

2026/7/25

        【汐汲坂上〈上の写真〉・・・左にフェリス女学院、汐汲坂は直進。右の路地を進むと百段上に通じる

連載:横浜山手界隈の坂 NO6 汐汲坂

◆【汐汲坂とは】〈諸説あるが〉・・・山手本通りのフェリス女学院(講堂)横に《汐汲坂~写真》と信号下に表示されている。急坂を一気に下ると、《元町幼稚園~横浜学園附属》 さらに足を延ばすと、元町商店街に突き当たる。この坂の名前の由来は、「昔は伊勢佐木町一帯が大きな入江となっていて、坂を下って村人が塩水を汲みに来たそうだ(かつて、伊勢佐木町一帯は吉田勘兵衛が広大な入海を干拓して新田に変えた)」と伝えられる。この坂は、元町から山手の丘を越えて、本牧へと通じる道でもあり《箕輪坂》と呼ばれていた。

汐汲坂・信号表示

汐汲坂下部元町幼稚園が左手

◆坂の下には【元町幼稚園】 ・・・ 園庭には、作家、中島敦(明治42年~昭和17年)の文学記念碑がある。中島は、昭和8年、東京帝国大学文学部を卒業。祖父の門弟であった田沼勝之助(横浜高等女学校経営者)に招聘され、ここで8年間奉職、国語と英語を指導した。昭和16年、南洋庁国語教科書編集書記官としてパラオに赴任。翌17年には「山月記」「文字禍」で文壇デビューを果たす。作品には「かめれおん日記」「わが西遊記」「名人伝」「李陵」などがある。昭和17年、持病の喘息悪化のため33歳で病没。死後出版された全集は、毎日出版文化賞を受賞。・・・〈幼稚園内の文学碑より抜粋〉

◆【元町百段とは】〈写真は、百段の今昔〉・・・この地は、横浜の開港時から大正期にかけて、浅間山の見晴台と呼ばれ、大変眺望が良かった(現在は、高層ビルが建ち並び若干見晴らしは劣るが)。かつては、前田橋から《元町の百段》と呼ばれて、元町五丁目から急な石段が百一段あった。市民は《百段》と呼び親しんでいた。石段上部には、元町の鎮守厳島神社の末社の「浅間神社」が祀られ、小さな茶屋があり外国人観光客も訪れたという。昔はここから港の出船入船や関内地区が手にとるように見え、遠く神奈川宿の旅篭や茶屋までが見渡せたという。・・・〈今の百段の位置は、関東大震災後に崩壊して少し東よりの現在地にある〉〈百段上にある「元町百段公園」解説板より抜粋〉

明治・大正期の百段~元町百段公園掲示》

《今の百段上からの景色》

◎〈汐汲坂道案内〉➡➡ みなとみらい線〔元町中華街駅〕より、元町商店街を約400m、石川町駅方面へ進む。「汐汲坂入口」を左折。しばらく進むと「元町幼稚園」〔注:中島敦記念碑は幼稚園に承諾を求める必要アリ〕。幼稚園の前から急坂が続く、これが「汐汲坂」。上りきった所が、山手本通り。フェリス女学院がすぐ右手に見える。

◎〈元町百段案内〉➡➡ 山手本通り《汐汲坂信号》より、汐汲坂を下らず、すぐ右手の路地に入る。しばらく進むと、左手に〈元町百段公園〉。さらに進むと眺望がひらけ、急階段が待っている。景色に見とれていると、うっかり足を踏み外す恐れあり、要注意。・・・〈筆者は階段下から、数えながら上ったが、汗まみれ疲れ、段数を失念してしまった。百段は下るのがお勧め〉

 

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