歩こう!! 神奈川 【横浜山手散歩】(見学会ブログNO 14)
『 横浜 山手の散歩道 連載 14 』
【フェリス女学院の歴史を見る】
横浜/山手の女学校といえば、フェリス女学院を多くの方が思い浮かべるでしょうか。山手本通りを挟んでベーリックホール(前号13で紹介)の向かい側に「フェリス女学院大学6号館」が、しばらく本通りを進んで汐汲坂に差し掛かると右手に「フェリス女学院中学校・高等学校」(写真上)が見えてきます。では、そのフェリスの歴史を遡ってみましょう。
◎1870(明治3)年のこと、メアリー・E・キダーがヘボン施療所 ※1 で授業開始~これが女学院の発祥です。
◎1875(明治8)年、山手178番※2 に校舎と寄宿舎が完成して「フェリス・セミナリー」と名付けられました。
◎1889(明治22)年、「フェリス和英女学校」と改称。
◎1923(大正12)年、関東大震災で校舎倒壊焼失し、第3代校長カイパーが殉職。
◎1929(昭和4)年、新校舎とカイパー記念講堂※3 が完成。
◎1941(昭和16)年、戦争中の爲、校名を「横浜山手女学院」と変更。
◎1950(昭和25)年、「フェリス女学院」と改称、短期大学などに改編。
【キダーさんの学校と言われたフェリス】
アメリカのバーモント州出身のキダーは、アメリカ改革派宣教師としてその生涯を伝道と教育に捧げました。
1869(明治2)年に、S・R・ブラウン宣教師の推薦によって来日したキダーは、翌1870年フェリスを創設しました(当時、36歳)。日本の女子教育に熱い情熱をもってスタートしたのでした。開学当時は「キダーさんの学校」と呼ばれていました。後に、山手178番に校舎が新築された折に、改革派教会外国伝道局総主事父子の名を記念して「フェリス・セミナリー」と名付けられました。
※1:ヘボン施療所は、中区山下町39番にあったアメリカ長老派教会より派遣された「ヘボン宣教医」の私邸兼施療所(診療所)、私塾(男子部が後の明治学院に、女子部がフェリス女学院の源流となる)や聖書翻訳の中心場所でした。
現在は、横浜地方合同庁舎の駐車場の所となります。
※2:山手178番は、現在「フェリス女学院中学校・高等学校」の場所となります。
※3:第3代校長のジェニー・M・カイパー(写真下)のことです。1922(大正11)年就任したカイパーは大正12年9月1日、まだ夏休み中でしたが新学期準備のため軽井沢から引き上げ、この日は朝から学校で執務していました。
11時頃卒業生の悩みなどに対応した後、あの大震災に見舞われ校舎の下敷きになってしまいました。
瓦礫の下で身動きできず火の手が元町から山手に回ってきました。
助けようとした人々に向かって早く安全な場所に避難するよう叫び「御心がなりますように」という言葉を残して彼女は火に包まれてしまった、と言います。
このカイパー殉職を記念して建てられたのが「カイパー記念講堂」です。2002(平成14)年に、新カイパー記念講堂として竣工しました。
※外国人墓地内に上記写真のように「カイパーの墓」があります。但し、墓地内は土曜日、日曜日、祝日以外は非公開です。詳しくは、横浜山手外国人墓地ホームページをご覧ください。
※次回、ブログは新年 1月10日頃、更新します。