歩こう!! 神奈川 【歴史散歩】(見学会ブログNO17) 連載 神奈川宿を歩く➂ - 横浜市退職小学校長会

歩こう!! 神奈川 【歴史散歩】(見学会ブログNO17) 連載 神奈川宿を歩く➂

2022/8/25

江戸時代の東海道、横浜三宿のひとつ神奈川宿をご紹介しています。既に、ご案内していますが、「見学会」では、11月3日(祝・木) 神奈川宿を江戸に向かって歩きます。この連載は、神奈川宿の名所、旧跡、関連人物などを紹介しています。今回は、神奈川宿~神奈川台の『田中屋さん』~にフォーカスします。

【田中屋の前身は さくらや】(写真上) 【さくらやから田中屋へ】(写真下)

「神奈川宿の賑い」《田中家》のあるこの辺りは、昔から神奈川の台と呼ばれ、眼下に神奈川湊を見おろす海に沿う景勝地として広く知られていました。ここ神奈川は、江戸時代は、東海道五十三次の内、日本橋から品川、川崎に続く第三番目「神奈川宿」として栄えました。当時の宿の様子は〈東海道中膝栗毛〉(十返舎一九)にも描かれているように、昼夜を問わず街道を行き交う人々でたいへんな賑いだったそうです。海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。弥次さん、喜多さんが活躍する〈東海道中膝栗毛〉には、「ここは片側に茶屋軒をならべ、いずれの茶屋も座敷2階造り、欄干つきの廊下桟などわたし、波打ち際の景色いたってよし。『おやすみなさいやァせ』茶屋女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄り、鰺をさかなに一杯ひっかけている」と、描写されています。

広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景の絵図を眺めますと、坂の上から三軒目に《さくらや》という看板文字があります。これが、現在の《田中家》の前身です。幕末の頃、文久三年(1863年)に、田中家初代が《さくらや》を買い取り《田中家》がスタートしました。その少し前、安政六年(1859年)に横浜開港が決まり、各国の領事館が次々と神奈川宿内の寺院に置かれました。また、多くの外国人が商館を構えるなど、横浜はこのあたりを中心に国際都市として発展していくことになります。

後の田中屋三代目、晝間富長氏の回想録(昭和3428日)によると、「江戸初期の頃、神奈川宿の腰掛茶屋《さくらや》は俗に権八茶屋と云って、侠客幡随院長兵衛の相手役、平井権八が立寄り、麦飯にとろろ汁で十杯食べたと云われて居り、東海道の山上の台町から上り下りの旅客は一帯に海でさゞ波がよせ返し、漁船、帆船の出入のある名も美しき袖ヶ浦(現在の鶴屋町)を眼下に見下し、崖の青松と後の高島山の四季の花は一幅の絵の如く絶景で、足を留め茶屋に腰を下ろし、鹿の子手柄に赤前垂れの飯売女が出す渋茶にのどをしめし、一句一吟、今に伝わるものも多い。『思ひきや袖ヶ浦浪立ちかへりここに旅寝を重ぬべしとは』『遥々の沖の干潟に休らひて満くる汐に乗する釣船』などが詠まれている。神奈川の名所、台の坂上には、昔の名残として明治40年頃迄、腰掛茶屋があって遠眼鏡を据えて客を呼んでいた。下台に米国と神奈川外四港の開港と通商条約の会議に使用した本覚寺(開港当時、米国公使館に使用)が有り、坂を下れば左に製塩店、回船問屋、他に旅籠屋五軒、休み茶屋、めし屋が数多く並び、客人も夏の夜の夕涼みに石垣の下の棧橋から遊船を仕立て、酒肴を持ち込み、芸妓を同伴し、築港廻りをして楽しんだ。その後、《さくらや》から下田家となり高島嘉右衛門氏が経営していたが、祖父弥兵衛が之を譲り受け、『実家が四方田に囲まれ、一軒屋に由来』し、家号を《田中家》と改め旅籠料理屋を開業した。」と描写しています。〈以上、回想録を一部抜粋〉

次号「ブログNO.18に続く」910日予定 連載「神奈川宿」その➃へ続く

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