歩こう!! 神奈川 【歴史散歩】(見学会ブログNO18) 連載 神奈川宿を歩く➃
京急「神奈川駅」(あるいは青木橋)から丘の上を見上げると【本覺寺】があります。壁面に大きく本覺寺と記されています。今回はこの【本覺寺】に関係する出来事や人物を紹介します。
◆◆◆現在の【本覺寺】(写真上)【宣教医ヘボン夫妻】(写真下)◆◆◆
江戸時代「東海道」に面していた、神奈川宿台町を始めとする宿内はたいへんな賑いをみせていました(ブログNO17で紹介)。約800年前に開山した(臨在宗から1500年頃曹洞宗に)「本覺寺」が、歴史の表舞台に登場するのは幕末のことです。日米修好通商条約締結(1858年)によって、横浜が開港すると「本覺寺」はアメリカ領事館に接収(開始は1859年旧暦6月2日)されました。わずか3年程で領事館は横浜居留地(関内方面)に移りますが【本覺寺】に関わるいくつかの話や人物にスポットを当ててみましょう。
【本覺寺】領事館スタートの祝賀は『アメリカ独立記念日』・・・・・旧暦6月2日の3日後(新暦7月4日)それはちょうど独立記念の日、領事館となった本覺寺で記念祝賀が行われました。当時アメリカ領事館通訳ジョセフ・ヒコの日記(7月4日)によると《早朝、湾内を林立する全てのマストに、賑々しく旗が掲げられていた。10時頃に我々は神奈川側に上陸し、本覺寺まで歩いて行った。寺の墓地に大木があったので、そのてっぺんの枝に棒を結び付け旗ざおにした。正午少し前に、公使ハリス、領事ドール、ミシシッピ号艦長並びに士官ヴァン・リードと私は墓地に乗り込んだ。12時丁度この旗ざおにアメリカ国旗を高く掲げた。そして、シャンパンをぬき、国歌を合唱して「我らの繁栄のために、星条旗よ永遠なれ」と乾杯した。この地に外国の国旗がひるがえったのは史上はじめてのことだった。》※通訳ジョセフ・ヒコとは、本名は彦蔵(彦太郎とも)と言い、13歳の時に、江戸見物の帰りに乗った船が遠州灘で遭難、漂流の末にアメリカ船に助けられたという人物です。その後、彦蔵はアメリカで教育を受け、市民権を得てジョセフ・ヒコと名乗り、日本に通訳として帰ってきたという話です。
【本覺寺】は、実は『生麦事件と関連するところ』だった・・・1862(文久2)年のこと、ここ神奈川宿から江戸寄りの生麦村で、薩摩藩の大名行列を横切ったイギリス人殺傷事件が起きました。世にいう『生麦事件』です。リチャードソンは薩摩藩士に斬られ即死状態だったのですが、負傷したマーシャルとクラーク2人は、アメリカ領事館であった本覺寺に逃げ込みました。開港と共に当時、神奈川宿の「成仏寺」を宣教師館としていた宣教医「ヘボン(正式には、James Curtis Hepburn)」が彼らの傷を治療しました。ヘボンがアメリカの宣教本部に宛てた書簡には、次のように『生麦事件』の様相が伝えられています。「薩摩藩士自身の命令でイギリス紳士を殺害したあの最も野蛮な、原因不明の殺傷事件は今までの事件に比べて、とてもごまかすことが難しい事件なのです。私の感じでは、問題は急速に危機に直面しており、また何らかの外国の干渉が加わるように感ぜられます。」(ヘボン書簡集1862年10月4日より) ヘボンの予想通り、その後薩英戦争を経て、江戸城明け渡し、維新へと日本は大きく変わることになったのです。
次号「ブログNO.19に続く」 9月25日予定 連載「神奈川宿」その➄へ続く