歩こう!! 神奈川 【歴史散歩】 (見学会ブログNO16) 連載 神奈川宿を歩く➁
江戸時代の東海道、横浜三宿のひとつ神奈川宿をご紹介します。既に、ご案内していますが、退職校長会「見学会」では、11月3日(祝・木) 神奈川宿を江戸に向かって歩きます。連載は、神奈川宿の名所・旧跡・関連の人物などを次々と紹介していきます。➁は、神奈川宿~上台橋から神奈川台の関門跡まで~です。
『上台橋は西の出発点』
『上台橋』は〈神奈川宿歴史の道〉の出発点です。「神奈川駅中図会 西台之図」(画像)にあるように江戸時代の頃の東海道は、潮騒の聞こえるのどかな海辺の道でした。図会に描かれているように、この付近から見えた朝日は、ひときわ美しかったに違いありません。では、『上台橋』とは、現在のどの辺りなのでしょうか。横浜駅からダイヤモンド地下街を真っ直ぐ進み、地上に出ると鶴屋町3丁目交差点があります。その歩道橋を渡りさらに進むと、間もなく頭上に『上台橋』が見えてきます。1930(昭和5)年にできたこの橋は、横浜駅周辺の開発が進み、切り通しの道路ができると共に、その上に架けられた橋です。上方(保土ヶ谷方面)寄りのここ『上台橋』から、神奈川宿に入ります。現在もそうですが、この橋からは急な上り坂となります。旅人も汗をかきかき上ったことでしょう。
『神奈川台には、関門があった』
坂道を上り詰めたところには、『関門跡』があります。大きな石碑には「神奈川台関門跡 袖ケ浦見晴所」と刻まれています。では、この『関門』とはなんでしょうか。開港後のこと、外国人があいついで殺傷される事件が起こりましたが、犯人はなかなか捕らえられなかったと言います。イギリス総領事であったオールコックを初めとする各国の領事たちは、幕府を激しく非難しました。そこで、幕府は横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化したのでした。この時、神奈川宿の東西にも関門がつくられ、その西側にここ『神奈川台の関門』があったのです。1862(文久2)年の生麦事件の際には、島津久光の行列の通過を待って、ただちに関門を封鎖し、イギリス兵の追撃を封じたと言われています。(写真:神奈川台の関門跡、ベアト作、現地説明板より)関門は1871(明治4)年に他の関門や番所と共に廃止されました。
次号「ブログNO.17に続く」8月25日予定 連載「神奈川宿~関門跡から料亭・田中屋前まで~」その➂へ続く