6月読書会報告ー井上 靖作「補陀落渡海記」救けてくれ

梅雨空の下、6月22日(木)に11人が青少年育成センター地下2階に集まりました。今年度読書会登録の方は22人、但し学校ボランテイアでご活躍の方や体調の整わない方もいらっしゃいます。ご健康に留意し、無理なく活動していきましょう。
私たち高齢者にとり、短編「補陀落渡海記」は重く冷たい内容です。「死」を覚悟する人間の姿を突き付けられるからです。森鴎外の「阿部一族」での「意地」の観念のような。本編では主人公の心の大揺れ。補陀落渡海信仰ー生きたまま小舟で送り出され水死した者は南方遥か、補陀落山に往きつき、よみがえり、永遠に観音菩薩のお側にいるーがまず取り上げられました。
「宗教として理解できない。」「即身仏と同じ修行の完結と理解できる。」「自分たちの憧れとして渡海上人を崇め死に駆り立てる世間の恐ろしさが怖い。」「自分自身の死を間近に覚悟した時の絶望感と混乱を疑似体験した」「読書会に出ることで死より多様な生き方を知った。」等。その中で共感を集めたのは、宗教とは何かという疑問と綱切島で金光坊が弟子に伝える二行の漢詩の読み方です。
「宗教は人間として生を受けたらどのように生きるかの指針、決して命をもぎ取る世界ではないはず。」「作者の作品に共通するテーマは、人間の生き方で死はその結果。」等の意見です。この短編でも金光坊の見送った7人の死生観は、信仰一途とは言えない記述で、読み手を驚かせます。今わの際に金光坊が弟子に伝えた二行詩は、講師から二通りの意味を教わりました。
息も絶え絶えに金光坊は、補陀落信仰の矛盾と決行の苦悩を伝えました。渡海上人としてではなく、ひとりの人間として。嵐の中、綱切島に泳ぎ戻ってしまい、二度目の船出の文章も印象的です。・・聞き取れるか取れないかの声で、救けてくれ、と言った。何人かの僧はその金光坊の声を聴いた筈だったが、それは言葉として彼等の耳には届かなかった。・・「救けてくれ」は、観音菩薩様の救いを求める声でしょうか。生きたいという一人の人間としての叫びでしょうか。生きたいと最期まで苦悩し続ける人間であってほしいと願いますが、作者は結論を出しません。結びは、補陀落信仰が水葬に変化したのに、金光坊の弟子清源が30歳の11月に生きたまま船出したと、淡々と物語を終えています。矛盾に満ちてるのが人間?
7月は、やはり熊野に縁の深い佐藤春夫詩集です。心惹かれた詩を選んできて下さい。どの詩集でもかまいません。7月27日(木)10時から関内青少年育成センター地下2階です。
6月の紫陽花
◊♠♣♥♦◊♠♣♥♦ 読書会広報部 ◊♠♣♥♦◊♠♣♥♦