囲碁にまつわる言葉(ク)
2025/10/16
「伊豆の踊子」
「『これぢゃ仕方がありません。投げですよ。』
『そんなことがあるもんですか。私の方が悪いでせう。どっちにしても細かいです。』
紙屋は藝人の方を見向きもせずに、碁盤の目を一つ一つ数へてから、増々注意深く打って行った。女達は太鼓や三味線を部屋の隅に片づけると、将棋盤の上で五目竝べを始めた。そのうちに私は勝ってゐた碁を負けてしまったのだが、紙屋は、
『いかがですもう一石、もう一石願ひましょう』
と、しつこくせがんだ。しかし私が笑ってばかりなので紙屋はあきらめて立ち上った。
娘たちが碁盤の近くへ出て來た。」
「湯には行かずに、私は踊子と五目を竝べた。彼女は不思議に強かった。勝継をやると、榮吉や他の女は造作なく負けるのだった。五目では大抵の人に勝つ私が力一杯だった。わざと甘い石を打ってやらなくともいいのが氣持よかった。二人きりだから、初めのうち彼女は遠くの方から手を伸して石を下してゐたが、だんだん我を忘れて一心に碁盤の上へ覆ひかぶさって來た。不自然な程美しい黒髪が私の胸に觸れさうになった。突然、ぱっと紅くなって、『御免なさい。叱られる。』と石を投げ出したまま飛び出して行った。」
昭和以前の旅先では、よく見られた光景ではなかろうか。旅館には、囲碁、将棋の用具は当たり前のように備えてあった。初対面の人同士であっても、どちらかともなく誘い合って打つ。そんな旅の楽しみもあった。
